571 翼飛ベナ

『翼』

飛ベナイ翼ジャ意味ガ無イ。
僕ノ背中ニ付イテイルノハ、タダノオ荷物。



一羽の雄鳥が谷合に住んでいました。
それは、飛ぶ事の出来ない鳥でした。
そして、飛べない事を誰にも悟られたくない鳥でした。


その谷合には、川が流れていたので、
多くの鳥たちが水を飲みにやって来ました。


水を飲みに来ていた雌鳥が、
雄鳥に近付いて来て言いました。
「貴方が飛んでいるのを、一度も見た事が無いわ。
 どうして貴方は飛ばないの?」
「嫌いなんだ」
「嫌いって、飛ぶ事が?とっても気持ちが良いわよ」
「だけど、僕は嫌いなんだ」
「でも…ずっと飛んでいないと、
 飛び方を忘れてしまうわよ」


その雌鳥の言葉を聞いて、初めて雄鳥は笑顔を見せました。
その時の雄鳥の笑顔がなんだか悲しそうで、
雌鳥はそれ以上何も言えなくなってしまいました。
雄鳥はこう思っていたのです。


大丈夫。飛ビ方ヲ忘レル訳ガ無イ。
ダッテ、飛ンダ事ナンテ一度モ無インダカラ。


雄鳥と雌鳥は、それからよく話をするようになりました。
雌鳥は、あちこちの土地の事を知っていました。
雄鳥は、歩いて行ける所までの事しか知りませんでした。
雌鳥の話を聞きながら、
雄鳥は自分の小ささを感じました。
自分も飛ぶ事さえできれば、
大きくなれるのではないかと思いました。


考えないようにと、目を背けていた飛ぶ事に対する思いが、
雄鳥の中で少しずつ芽生え始めていました。


ある日、雌鳥が言いました。
「これからの季節は、とても寒くなるわ。
 一緒にどこか暖かい所へ飛んで行きましょうよ」
谷合の木々も、もう枯れ始めていました。
飛ぶ事の出来ない雄鳥は寒さの厳しい冬も、
この谷合にいるしか方法は無かったのですが、
ほとんどの鳥達は冬の間だけ、
別の暖かい土地で過ごすのです。


「ねぇ、飛んで行きましょうよ」
雄鳥は、雌鳥と一緒にいたいと思いました。
その為には、飛ばなくてはいけません。
初めて、飛びたいと思ったのです。
初めて、飛んでみようと思ったのです。
雌鳥が眠りに就いた後、
雄鳥はねぐらから少し離れた河原に行きました。
そして、雄鳥は、周りに誰も居ない事を確認して、
翼をはためかせました。


「バサッバサッバサッ」


やはり体は宙に浮きません。
雄鳥は翼がちぎれる程に強く続けました。


「バサッバサッバサッバサッバサッ」


その力強い羽音は、谷中に響き渡り、
寝ている雌鳥の耳にもその音は届きました。
はじめ、雌鳥は、
その音が何の音なのか分かりませんでした。
無理もありません。
それまで一度も、
雄鳥の羽音など聞いた事が無かったのですから。


だけど、目を開けて、
隣で眠っている筈の雄鳥がいない事を知った時、
雌鳥は羽音の主が雄鳥であるに違いないと思いました。
そして、音のする方へと近付いて行きました。


「バサッバサッバサッ」


繰り返すその羽音は、とても力強く、
それ以上に悲しい響きを持っていました。
雌鳥は、翼をはためかせ続ける雄鳥を、
陰からずっと見詰めていました。
次の朝、雌鳥は雄鳥に言いました。
「ねぇ、貴方も一緒に飛んで行きましょうよ」
雄鳥は答えて言いました。
「無理だよ。……僕は飛べないんだ。
 この僕の翼に、意味なんて無い」
それは、雄鳥の初めての告白でした。
それを聞いて、雌鳥は微笑みました。
今まで自分の気持ちを隠し続けていた雄鳥が、
自分の本当の気持ちを、聞かせてくれたからです。


雌鳥は言いました。
「ねぇ、抱き締めて」
「え?」
「ねぇ、抱き締めて」
「……」
雄鳥は、どうして雌鳥がそう頼むのか
分かりませんでしたが、
言われるまま、雌鳥を抱き締めました。
抱き締められた雌鳥は目を閉じて、小さな声で呟きました。
「……あぁ、貴方の翼はとても温かいわ」


雄鳥の持つ翼は飛べない翼でした。
だけどそれは、
雌鳥を優しく包む事のできる、温かい翼でした。


雄鳥は、今までずっと、
飛ぶ事の出来る翼が欲しいと思っていました。
きっと一生、
そう願い続けるであろう自分を感じていました。
しかし、今、
雄鳥はこの飛べない翼を大切にしようと思いました。
この飛べない翼で、雌鳥を大切にしようと思いました。